□ 八千八声の客 □ shard-5 □
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なんだ、という言葉の代わりに面倒そうな視線だけが返る。
「だから、そのワイシャツ」
「林原特製の水溶性だ、洗えば落ちる」
なるほど、そこまで思考が回っていたのか、といくらか感心してしまうが、駿紀のイライラが収まるわけでは無い。
「スーツはどうにもならないけどな」
「繕える状態かどうかは、洗ってみなくてはわからん」
またも、あっさりと返される。いつもの駿紀のおしゃべりだと判断したらしく、透弥は背を向けてしまう。どうやら、血のりのついたスーツをたたんでいるらしい。
イライラが、更につのる。
「だよな、真っ赤だもんな。でも、うっかり洗ったらそのテの穴ってのは大きくなるんじゃねぇの」
妙に低い声になった駿紀へと、透弥は不審そうに振り返る。
その視線をまっすぐに見返して問う。
「なんでだよ」
「何がだ」
平静な声に、我慢しきれず駿紀は声を荒げる。
「何がって、なんでこんなことすんだよって言ってんだよ!」
透弥は、駿紀が怒鳴る理由がわからずに眉を寄せるが、一応は返す。
「ああいうのは、えてして血を見るまで諦めない厄介なタイプだ」
ああいうのというのが、池田真由美を指しているのはイラついている駿紀にだってわかる。相変わらずというか、人質がいる状況でも記録からそこまで割り出す透弥はさすがだと、いつもなら思えるのだろう。
が、今はそうは思えない。
「だからって、あんな煽らなくていいだろ。こんなになる必要が、どこにあんだよ」
「こちらに来るよう仕向け無くては、持っている凶器を取り上げる機会が無い」
どうやら駿紀が妙に怒っていることだけはわかったのか、透弥は毒舌でなく、まともに返してくる。
なるほど、それであんなに勢いよく煽ったのかと駿紀も理解はするが、納得は出来ない。
「でも、刺されてやる必要は無いじゃないか」
同じことを二度繰り返すのが面倒というより、ついさっき言ったことを忘れたとしか思えない発言に、透弥はいくらか首を傾げる。
駿紀は透弥が黙り込んだのが気に入らず、更に唇をとがらせる。
「スーツ、ダメにしなくてもいいだろ」
なにやら、子供がダダをこねるような怒り方の駿紀を、透弥はもてあました顔つきで見やる。
「何がそんなに気に入らない」
「心配する」
「心配?」
透弥の怪訝そのものな声に、駿紀は再び声を荒げる。
「本当に刺されたかと、心配したっての!あんな、血が出るとこ見せられてみろよ」
透弥は、何を言ってるのだという顔つきになる。
「ホンモノは見慣れてるだろうが」
血のりとホンモノくらいの見分けはつくだろう、と言外に言われて駿紀はますます眉をつり上げる。
「見慣れてるよ!だから心配になるんだろ!」
そう、見慣れている。一課殺人担当、しかも難事件を持ち込まれることばかりだった木崎班に所属していたのだ。目を背けたくなるような遺体を、何度も何度も目にしている。
どの程度の血溜まりが出来ていたら危ないのか、目の感覚で知っている。
だからこそ、透弥の手からあれだけの勢いで血が流れ落ちていくのを見て、ぞっとしたのだ。
「わかりやすいニセモノだったろう」
「だからって、すぐにわかるかよ」
返しながら、どうしてこう、神宮司という男はどこまでも冷静なんだろうということまでムカついてくる。
事件の状況判断は瞬時にしてのけるくせに、今、駿紀が言いたいことがわからないというのも腹立たしい。こんなにわかりやすいこともあるまいに。
「ケガしたかと思って心配したらいけないのかよ」
「ケガはしていない」
「そういうことじゃないっての!」
「なら、どういうことだ」
透弥が、眉を寄せる。
どうしようもなく腹立たしくてたまらない。なんで、ここまで言ってもわからないのか。心配したという単語が通じないのなら、と駿紀は考えを巡らせる。
「だから」
言いながら視界の端に映ったモノに、コレだ、と思う。
いきなり手を伸ばした先にあるのは、透弥が先ほど置いた血のりだ。握って、思い切り自分のワイシャツに叩きつける。
あまり中身は無いかと思っていたが、そうでもなかったらしい。
駿紀の左腕が、派手に赤く染まる。
「いきなりこうなったら、驚くだろって言ってんだよ」
「では、やる前にコレはニセモノですと言えばよかったのか」
不愉快そうに透弥の眉が、更に寄せられる。
「あのな、そんなこと言ったら、せっかくの仕込がボツるってのくらいは俺にもわかってるっての」
バカにしてんのか、という単語はかろうじて飲み込む。うっかり口にしたら、その通りと言いかねない透弥の顔つきだ。
「百歩譲って、必要だからやったってのは認めるとして、俺は一時にしろ驚いたし、心配しだんだよ。なんか言うことあるだろ」
「何を言えと。あのまま相手をしていたところで、遅かれ早かれ池田は凶器を動かしたろう。本当にケガをする可能性があったのを防いだだけだ」
「何だソレ、むしろ感謝しろってか」
「いらん、面倒な」
微妙に売り言葉を買ったのか、透弥の言葉に毒が混じる。
「だいたい、津田さん人質だったんだぞ。なんだってこんな方法なんだよ」
「人質がいたからこそ、短時間でケリをつけるのが最良と判断しただけだ」
駿紀もイラついているが、透弥も機嫌が悪くなってきたのがありありとした口調だ。
「はっきり言わなくたって、どうにか伝える方法くらいはあるだろっての」
「だから、ニセモノと言えと言いたいんだろうが。そんな時間を取るくらいなら、ケリをつける方ことを優先した方が建設的だ」
「たった一分ありゃ済むじゃないか、勅使さんとこの伝言方法だってあんだから。だいたい、電話で合図したソレでわかったんだろ」
「何度もして、合図してるとワレたら、ただのバカだ」
「あと一回だろうよ。だいたい、池田相手にワレても問題無い」
「それは結果論だ」
息つく間は相手の発言中のみの勢いだ。
「そっちだって結果論だろ、煽った結果が神宮司に向くって保証はどこにも無かった」
「隆南は何の為に、アレを伝えた」
「ああ、情報拾ってくると思ってたよ、期待もしたさ。まさか、あんなになるまで全く伝えてもらえねぇとはな」
「無駄に間を開けて、考える余裕を与えてやる必要がどこにある」
「そこまで言うなら、煽りながらヤレよ」
「多重放送までして言うことか」
透弥の切れ長の目が、いつもより釣り上がっている。単なる不機嫌ではなさそうで、相変わらず駿紀の言いたい肝心のことは、伝わってない。
当然、駿紀のイライラは収まるどころか増幅されてくばかりだ。
「言うことだろ」
「わかった、今後留意させていただく」
モノの見事な透弥の棒読みに、駿紀の眉もつり上がる。
「なんだ、その言っときゃいいって態度」
「留意すると言ったろう、文句は無いはずだ」
「あるよ」
「言い方にまで注文をつけられる覚えは無い」
「心にも無いってのがありありとした言い方されて、納得出来る方がすげぇっての」
毒舌で切り返されようが、ああ言えばこう言ってくるんだろうが、コチラの主張は少なくとも理解してもらうとばかりに駿紀は睨み返す。
透弥の方も、なんらか妥協するか折れるかする気はさらさら無い目付きで見返す。
「それは失礼。こういう口調しか出来ないモノで。ご容赦いただければ幸いだ」
「出来りゃとっくにしてる、直せよ」
「まま返す」
「なんで俺が、そこで引かなきゃなんねぇんだ」
「無理は通らないということだ」
「どこが無理」
「根本的に無理だと言っている」
透弥は、いっそ小気味いいくらいにきっぱりと言い切る。こんな口調がデフォルトと言われて納得するなんてあり得ないとばかりに駿紀は言い返す。
「あのな、だから、コレでもソレ言えるかっての」
もう一度血のりを手に、自分のワイシャツを染めてやる。
「何の予告も無しに、こんなの見せられてみろってんだよ」
「どこをどう見ても血のりだろう」
「そりゃ、知ってるからだろうが」
「知らなくとも、血にはとても見えない」
不愉快そうに眉を寄せつつ、透弥は、駿紀が机に置いた血のりを手にする。
「そもそも、粘度が違いすぎる」
確かに透弥の言う通り、気付いてしまえばホンモノと思えるシロモノでは無い。粘りは全く無いし、そもそもの赤みが違う。
そんなことは、駿紀にもわかっている。問題にしてるのはそこではないと、何度繰り返させるんだ、とばかりに派手に嘆息してやる。
「ああもう、そりゃわかったよ。俺も後からは気付いたよ。でも、にじみ出た瞬間にわかるヤツはそうはいないって言ってるんだ」
「刑事がそんなでは」
「いつだって冷静でいられるヤツの方が、珍しいっての」
透弥が言いかかった言葉を遮った駿紀は、一気に続ける。
「神宮司なら、コレがホンモノでも動じないんだろうけどな」
「決めつけられる覚えは無い」
吐き捨てるように言ったかと思うと、透弥は不意に顔を背けてしまう。これ以上は話もしなくないというのが表情にありありとしている。
が、ここまで来て引き下がる気は、駿紀にもさらさら無い。
「勝手に話終わらせるなよ」
「勝手にそちらも決めつけただろう。ヒトツくらいはこちらに選択肢があってもいいはずだ」
「決めつけじゃないってなら、なんでわかんないんだよ」
「ソレとコレとを混同するな」
「してない」
逸らしていた透弥の視線が、戻ってくる。
「では、どういう関係だ」
「俺には、この血のりが一瞬にしろホンモノに見えたってってんだよ。ホンモノなら冷静でいられないってなら、どういうことかくらいは察しろよ」
「冷静さを保っていないと、どうだと言いたい」
「心配するって、さっきから言ってんだろ!」
「なんで、隆南が」
「なんでって、そりゃ!だからなぁ!」
どこまで言わせる気だ、と駿紀の言葉が喉で引っかかってしまったところで、透弥は棘と冷気たっぷりに言い切る。
「だから、なんでばかりでは池田と同レベルだ」
当然、コレにカチンとこない駿紀ではない。
「そっちこそ、なんでなんて池田レベルじゃないか」
完全に子供レベルの言い争いになってるのだが、もうはっきりいって構ってられない。
何か透弥が返しかかったところで、突如別の声が加わる。
「うわ?!」
悲鳴ともなんとも似つかない声に、さすがに駿紀も透弥も振り返る。
「二人とも、どうしたんだよ?!」
そこには、目を丸くして壁にはりついている林原と、同じく後ろ手に扉を閉ざしたまま、いくらか目を見開いている勅使がいた。

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