□ 八千八声の客 □ shard-7 □
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「それ、マズ過ぎる」
一瞬でも木崎の怒鳴り声の方がいいかもしれないなんて思ってしまったことを、駿紀は思い切り後悔する。
なんせ、木崎は特別捜査課をつぶしたくて仕方ないのだ。少しでも不始末と思えば、絶対にあげつらうに違いない。
林原は、きょろきょろと部屋を見回す。
「どっか、隠れるとか?」
「どこにだ」
呆れた顔つきで透弥が返す。駿紀も思うが、でも正直な気持ちとしては、つい言ってしまう。
「ホントにそう出来るなら、そうした方が」
「着替え、間に合わないよねぇ」
抱えてきたワイシャツを、林原はすっかり困惑した顔で見つめる。
一人無言でいた勅使が、に、と口の端を持ち上げる。
「大丈夫だ」
「え?」
どういうことか、と問い返す前に勅使は指を一本口の前に立て、少しだけ特別捜査課の扉を開ける。そして、透弥へと向き直ったかと思うと、す、と大きめに息を吸う。
「だが、この証拠の識別と取り扱いには、どうする気だ」
「そうですね、こちらの凶器は指紋検出と血液検査が有効でしょう」
一呼吸おいただけで、勅使が何をしようとしているか理解した透弥が、同じく、いつもより大きい声で返す。
扉が開いたので、耳のいい駿紀には、聞き慣れた足音が向かってくるのをはっきりと感じる。が、まだあちらにこちらの言葉がはっきりと聞こえるところまでは来ていない。
「血液検査で、どこまで詰められると考えている?」
「サンプルの状態がいいかどうかにかかってますが、林原?」
何の為の猿芝居かは理解したらしいが、急にふられて林原は目を丸くする。が、話題としては興味ある範囲なのだろう、池田が残していった鏡が本当に鑑定が必要な凶器だというように覗き込む。
「そうですねぇ、この状態でははっきりしたことはなんとも。ですが、少なくとも人のモノが付着しているかは判別可能でしょう」
「科研に、そこまで可能な装置があるか?」
「まだですねぇ、残念ながら。ですが、ツテはありますよ」
これは実際そうなのだろう、林原は、に、と口の端を引き上げる。どうやら、凶器についている血液が人のモノかどうかが問題になっていることにしたようだ。
自分の中で、持ち込まれる事件として想定しているモノのヒトツなのだろう、その点は淀みない。だいたい、視線がすっかり事件対応時と同じになっている。
「では、コレに関してはソレで決まりだな」
耳を澄まし続けている駿紀は、近い、と机を指で叩いて合図する。
「神宮司、後はどうすべきと考える?」
「現時点では、あえてコチラが動いていると示しつつ泳がせるのが得策でしょう」
少なくとも、勅使依頼の件を抱えていて、まだ時間がかかる、とは伝わったようだ。
聞き慣れた足音は、どこか腹立しそうではあるが、引き返して遠ざかっていく。
駿紀の耳で、完全に足音が聞こえなくなったところで、扉を閉ざす。
言葉の前に意味は三人に通じる。林原が、大きく息をつく。
「危ないところだったねぇ」
「勅使さんがいて下さって良かったです。ありがとうございます」
駿紀の礼に、勅使も笑みを返す。
「いや、だが、降りるのは少し後にした方が良さそうだから、もう少しいさせてもらうよ」
確かに、捜査の打ち合わせをしたふりをしたのに、木崎の直後に降りていくのは変だろう。
「色々と、すみません」
軽く頭を下げた駿紀たちへと、林原が抱えてきたモノを出す。
「二人とも、そろそろ着替えた方がいいよ、タオルもあるしねぇ」
「用意がいいね」
勅使のコメントに、林原は頭をかく。
「いえ、東さんの入れ知恵ですよ。雑巾も」
素直に言うと、着替えを二人の腕に押し付け、腰をかがめる。と、一緒に勅使までも腰を低くする。
え、と言うように目を瞬かせる林原に、勅使は笑みを向ける。
「もう一枚雑巾あるか?ヒマだから」
ここまできたらと開き直ったのか、林原は、じゃあお願いします、などと二枚目をしっかりと手渡している。
正直、勅使にこれ以上のカリを作ると後がどうなることやらと心配になってしまうのだが、自分たちも、いつまで赤く染まったワイシャツでいるわけにいかない。
なにやら楽しそうに床の雑巾がけにいそしんでる勅使と林原を横目に、駿紀は赤く染まったワイシャツを脱ぎ捨てる。東が周到に用意してくれたというタオルで、腕についた血のりを拭いていると。
「隆南、その手はどうした」
声に駿紀が振り返ると、まっさらなワイシャツを手にしたまま、妙に眉を寄せた透弥と視線が合う。
「どうって?」
返しつつ、透弥の視線の動きにつられるように右手の平を見下ろして、あ、と呟く。うっすらと、赤黒い線が出来ている。
コレは、血のりではなくホンモノだ。
「ああ、回収する時にちょっと触ったか」
「手を洗って来い」
「着替え終わったらそうする」
駿紀は素直に頷く。が、透弥は不機嫌な顔のまま繰り返す。
「バカか、すぐに洗って来い」
「バカって何だよ」
む、と唇をとがらせて見せるが、透弥も引く気は無いらしい。
「ガラスを触ったキズを放っておくのがバカじゃなければ何だ」
「ガラスのキズは放っておかない方がいいかな」
「そうだねぇ」
床から二人にも言われてしまえば、逆らい難い。
「はい」
素直に頷いて、奥に小さく備えられた洗面台に向かう。
少々勢い良く水を出して手を洗いながら、駿紀は、透弥も自分のことを考えて言ってくれたんだから、となんとなく腑に落ちてないのをなだめてみる。
「あれ」
思わず、小さく呟く。
それというのは、ある意味。だが、先ほど言い争った時の透弥は、駿紀の言い分をカケラも理解して無さそうだった。
恐らくは無意識に、しきりと首をひねっている駿紀の後ろ姿に、吹き出しそうになったのを堪えたのは勅使だ。
透弥は軽く眉を寄せたまま、一足先に身支度を整える。
駿紀も、すぐに元通りだ。
床に落ちた分も、すっかりキレイになっている。
「さて、以上だな」
ざっと見回した勅使に、駿紀と透弥は改めて頭を下げる。
「色々とありがとうございました」
にこり、と勅使の笑みが大きくなる。
「今日の分については、ヒトツ指示とヒトツお願いを聞いてもらえばチャラにしよう」
かなりなカリだと思うのだが、指示とお願いヒトツずつでいいとは。
どんなコトを言われるやら、と、駿紀は身構えてしまう。透弥は、軽く眉を寄せつつ尋ねる。
「何ですか?」
「お願いはね、また飲みに付き合って欲しいっていうの」
酒の肴にされるくらいは、お安い御用だ。駿紀はあっさり頷く。
「わかりました」
「指令は、念の為、隆南くんの手を扇谷先生に診せて来なさい。隆南くん一人では行きにくいだろうから、神宮司も付き合うこと。以上」
反論は一切受け付けない、ということらしい。
手の傷は、血が出たというより滲んだというのが正確なくらいな浅いモノだ。透弥の忠告通り、よく洗ったことだし、後は消毒でもしておけば充分な類なのだが。
「え、いや」
カスリキズ、と言いかかった駿紀を封じたのは、なんと透弥だ。
「わかりました、そうします」
妙に素直なのに、駿紀は思わず目を瞬かせる。林原も、同様らしい。
そんな二人を尻目に、透弥はとっとと扉を開く。
「隆南、行くぞ」
「あ、ああ。じゃ、失礼します」
ぺこり、と勅使に頭を下げ、林原に軽く手を振ると、駿紀も慌てて後を追う。
階段も途中になってから、駿紀は透弥の隣に並ぶ。
「あのさ、神宮司」
「なんだ」
いつもの無表情のまま、いやに早足で階段を降りていく透弥に、駿紀は素直に疑問を投げる。
「勅使さんって、んなに怖いのか?」
何のことが言いたいのかは、すぐに理解したらしい。面倒そうに眉が寄る。
「自分の元上司を過小評価するな」
返されて、駿紀は目を見開く。
「なんで、そこで木崎さ……あ」
捜査上の進め方の話を、駿紀たちがわざわざ扉を開けてやるわけが無いことくらいは、木崎とてわかっているはずだ。
ましてや、冷徹で知られる勅使がいる状況では。
「猿芝居と気付いてたから、落ち着いたのを見計らって戻ってくると踏んでたんだな?」
透弥から返事が返らないのが、肯定と思っていい。
勅使は、二人を木崎の矛先から逃がしたわけだ。
「でも、ってことは」
思わず呟いてしまって、駿紀は口をつぐむ。
猿芝居と気付いていて、木崎はなぜ、引き返したのか。思いついてしまった答えは、あまり口にして気持ちのいいものではない。
が、透弥にあっさりと確定される。
「正反対と並び称されるくらいだ、仲がいいとは言い難いところはあるだろう」
「まぁ、そうかもしれないな。科研もヒイキとはとてもじゃないけど言えないし」
我知らず、駿紀の顔には苦笑が浮かぶ。
聞こえてきた会話は、少なくとも木崎が引き返したくなるくらいには、愉快なモノでは無かったのだろう。そもそも、勅使がいるところに乗り込んだのでは、彼の用件が果たされるかどうかも微妙だったのかもしれない。
「木崎さんが戻る頃には、誰もいないって具合なんだろうけど」
「次回来る時には、覚悟がいるかもしれんな」
透弥も、軽く肩をすくめる。
ひとまず、近い将来降りかかってくるであろう災難はおいといて、だ。
「で、俺ら本当に扇谷さんとこ、行かなきゃいけないのか?」
「あの人は、電話確認するくらいのことはやりかねない」
勅使のことなら、断然よく知っている透弥に言われてしまったら、駿紀は大人しく頷くしかない。
「なるほど、罰ゲームもしっかり入ってるってわけな」
「諦めろ」
そう言う透弥は、勅使が言い出した時点で諦めていたのか、落ち着いたものだ。
「勅使さんって、面白い人だな」
駿紀は、水を向けてみる。
透弥は、もう一度軽く肩をすくめる。
「確かに、独特のユーモアの持ち主ではある」
警視庁内で囁かれる冷徹というウワサはあくまで事件に対してであり、身近な人間にとってはそうでもないというのは、ココ最近の経験で駿紀もわかる。もっとも、あえて吹聴して回るようなことでもないが。
「忙しい扇谷さんを煩わせるのは申し訳ないけど、勅使さんの気が済むなら仕方ないか」
割り当てられている車両のキーを手にしようとしたところで、駿紀は手を止める。
「っと、電車のがいいか」
「ああ」
今日は戻ってこない方がいいという判断は同様らしく、透弥もごくあっさりと頷き、正面玄関へと向かう。



ひとまず洗濯物を引き受けた林原も出て行き、特別捜査課には静寂が訪れる。
さほどの間もなく、林原が降りて行ったのとは反対側の階段に足音が響く。
灯りがついているのを視線で確認した木崎は、当然のように閉まっている扉を開ける。
が、そこにいたのは駿紀でも透弥でも無く。
「なぜ、勅使班長がいる」
一気に不機嫌に眉が寄る。

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