『 桜ノ森満開ノ上 拾弐 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

振り返り、視線が会うと、折り目正しく頭を下げる。
「失礼する」
「どうぞ」
孔明に導かれるように楼へと現れた馬超は、目前に広がる景色に目を見開く。
「や、見事ですな」
月明かりの下、一面に広がる桜の海。
見渡す限りの薄白に、目を奪われたかのようだ。
そのまま言葉を発することも無く、馬超はただただ、景色を見つめる。
いくばくかの時が過ぎて。
口を開いたのは、孔明の方だ。
「孟起殿、ご質問はなんでしょう?」
弾かれるように振り返った馬超の目が、見開かれている。
にこり、と孔明は微笑む。
「私に、何かお尋ねになりたいことがあるのでは?」
問いを重ねられて、苦笑が浮かぶ。
「適わんな。何もかもお見通しのようだ」
「何もかも、とは参りませんよ」
少し、逡巡してから。
言葉を捜すかのように、馬超の視線は桜へと戻っていく。
「かつて、俺は二人の人から不可思議なことを言われたことがあります」
一度、口をつぐむ。
「仇敵からは、天も地も見えぬ、と」
ぐ、と唇を噛み締める。
「殿からは、我らの敵は人ではない、と」
視線をやると、孔明はただ、静かに見つめ返してくるばかりだ。
「何を見ているのだろう、と気にかかりました。それで、お世話になることを決めました」
薄白の海へと戻っていった視線は、どこか遠くなる。
「最初は、誰もが見えているのかと思っていたのです」
次に戻ってきた視線は、先ほどまでよりはずっと強い。
「が、そうでは無かった」
睨みつけるほどの視線にも、孔明の表情は動かない。
「我が軍で見えているのは、殿と軍師殿だけだ」
ゆらり、と白羽扇が揺れて。
にこり、と孔明が微笑む。
「お二人とも、過分の手掛かりを与えてくださったようですね」
その言葉の意味するところは、馬超にもはっきりとわかったらしい。
「軍師殿からも、お答えはいただけないですか」
「そうですね、まだ」
笑みを浮かべたまま、孔明の視線が桜へと移る。
と、同時に。
ざ、と音を立てて、花弁が揺れる。
数枚、引きちぎられたものが、さらりと孔明の周りを舞う。
一瞬、目を閉じかかった馬超は、は、と目を見開く。
もう、何もかもを攫いそうな風は、無い。
「ああ、軍師殿は風ですか」
「はい?」
孔明が、視線を戻して小さく首を傾げる。
今度は、馬超が笑みを返す。
「前には、逆巻く炎と水を見たのです」
一瞬、目を見開いた孔明は、今度は柔らかく微笑む。
「そうですか」
つ、と桜を見やる視線は、馬超が見たことの無い優しいものだ。
「なるほど、お似合いになる」
それは多分、主君にだけ向けられた言葉ではなく。
馬超も、桜へと視線を戻す。
「俺は、また過分の手掛かりをいただいたようだ」
苦笑交じりの言葉に、孔明は静かに返す。
「見えぬと、落ち着きませんか」
「いえ。今となっては楽しくもあります。いつか見えるだろうか、と」
きっぱりと言い切り、馬超は首を横に振る。
「あの頃は、落ち着きませんでした。だから、もう一度問うて見たかったのです」
それから、照れくさそうに笑う。
「俺も馴染めたのだろうか、と、確かめてみたかったのです」
「それでしたら、問わずとも充分に」
馬超は、目を見開き。
また、笑う。
「来て、お尋ねして、良かった」
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2008.03.30 Above the full blossom cherry trees XII

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蛇足
かつてについては、『霧の中』『雨宿る』参照で。


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