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いろんなのを読んでるうちに、気に入った人物、気になった人物の覚書。
重要度よりは興味で五十音順にピックアップ。
小話ついてしまった人物にはリンク有。

らいんだよ
晏嬰 (あんえい) BC〜500
晏子。斉の宰相。春秋、孔子と同時代の人。
霊公、荘公、景公の三人に使える。常に直言を持って主君に接し、その忠義と手腕で後に名宰相として知られることに。
荘公暗殺時には、その節を曲げないまっすぐな態度に反乱者も晏嬰を切れなかったという。
凡人な景公も晏嬰の諫言だけは大人しくきいたらしい。
躰は六尺(135cm)にも満たない、小矩であった。

斉の晏子って言ったら、この人のことらしい。
梁父吟に謡われる『ニ桃をもって三子を殺』した晏子は彼。
『晏子春秋』にその記載があります。記述はともかく、真相はどういう事件だったのやら。



陰麗華 (いんれいか) AD4〜?
光武帝・劉秀の妻。
恋女房と言ったほうがいいだろう。劉秀は見初めた時から彼女を奥さんに迎えることを望みつづけたらしいので。
劉秀が皇帝を名乗った際、独立前後に世話になった劉楊の姪・郭聖通を立てるも反対せず。
後、郭皇后が自滅して、皇后に。

この人のすごいところは、目前の嫉妬は抑え込んで「今死んではどうにもならない」との判断を冷静に下せたところ。
しっかりと愛情を握っているという強みとはいえ、なかなか出来ないことでは。
>>> 『瞳の奥』



王昭君 (おうしょうくん) BC?〜?
出身は、南郡(現在の湖北省沙市付近らしい)。前漢、元帝(在BC49〜33)の時代の人。
最初、元帝の後宮に召されたが、匈奴との友好関係保持のため、単于に嫁いだ。
中国の伝説では、悲劇の美女とされる。
が、文化が異なること以外では、ずいぶん大事にされていたよう。
中国四大美人の一人。

伝説だと、画工に賄賂を渡さなかったために不美人に描かれてしまい、匈奴行きが決定したことになってる。
しかし、自分は美人だから賄賂なくっても綺麗に描いてもらえると信じている辺り、お嬢さまは世間知らずというべきか、とんでもない自信家というべきか。
ともかく、伝説をまま信じると、性格に問題あると思うのは私だけ?
>>> 『暁月夜』



桓公 (かんこう) BC685〜643
本名、小白。斉王。春秋最初の覇者。
父、襄公の横暴ぶりを避け、後見役の鮑叔牙を伴い筥に亡命。同じく有望視されていた太子糾と跡目を争い、見事勝利する。
その後、鮑叔牙の勧めを受け入れ、糾の後見役で己の命を狙った管仲を宰相として登用。覇者への階段を駆け登った。

側に賢者がいれば、その言を耳に入れるだけの器量がある人物だけど、当人はいたって普通の人。
脅されれば怒るし、偉くなったと思えば奢るし。
まさか、最後の一年に少々ダメ臣下を重用したために、遺体を十ヶ月もほっとかれるハメになるとは当人も思わなかっただろう。埋葬する時、蛆がわいていたそうな。合掌。



韓信 (かんしん) BC?〜196
出身は、淮陰(わいいん)。前漢建国三傑の一人。
若いころは、けっこう苦労人だったらしい。
最初、項羽軍の下級将校となるが、それに満足できず離反。劉邦軍に走る。
蕭何に見出され、劉邦軍総司令官に就任する(功がなくても、なれるとこがおおらかな時代だ)。
背水の陣とか、四面楚歌とか、故事成語になるよな作戦を展開。
劉邦軍に最終的な勝利をもたらした。
戦争に関しては、天才的才能の持ち主だったが、政治的感覚には欠けていたらしく、時期を逸した反乱を起こし、自壊した。

引き際が良ければ、すごい英雄だったと思うんだけど。
もったいなや。



管仲 (かんちゅう) BC?〜645
斉の宰相。桓公を春秋最初の覇者とした、立て役者。
その名宰相ぶりで知られるが、一方で『管鮑の交わり』の故事成語でも有名。
最初、桓公のライバルとなる公子糾に仕えたいたが、のち、君主争いに敗れた糾が殺されたあと、桓公に仕えていた親友・鮑叔牙によって、新君主の宰相に推薦された。
そして、見事期待に応える働きを見せたのである。

『管鮑の交わり』。
一見、美しい友情の言葉に見えるが(遠い目)。
以下、鮑叔牙の項に譲る。



項羽 (こうう) BC233〜202
出身は、楚。羽は字で、名は籍。
貴族階級出身で、幼いころから、言うこともやることもでかい男だった。
史記には、巡行中の始皇帝を見て、「彼、取って代わるべきなり」と叫び、いっしょにいた叔父を、ひどく慌てさせた逸話が残っている。
兵法には、天才的な才能があったようで、一時は彼が、秦のあとの天下を握る勢いだったが、劉邦軍の地道な反撃にあい、ついには滅んだ。
秦軍の降兵二十万人以上を生き埋めにするあたりは、始皇帝も真っ青。
弱点は、細かいところを見るのが嫌いなとこ、親戚関係以外に冷たいこと、虞美人、錐。

なんとなく呂布っぽいイメージ。で、虞美人が貂蝉。
意外と似合ってると思うのですが。ようは、あまり天下の英雄という気がしない。



光武帝 (こうぶてい) BC6〜AD57
本名は劉秀、字を公叔。
漢室とは縁続きだが、最初は西漢を滅ぼし周の政治を行うと息巻いてた王莽に反抗した緑林軍に参加。
味方の裏切りにより兄姉を殺されるも、持ち前の慎重居士の性格でどうにか乗りきる。その後、洛陽に居座る緑林軍からは遠ざかり、赤眉軍と消耗戦を繰り広げているのを尻目に、北方を制圧。
戦の勝利後、敵方と誼を結ぶ味方の武将からの手紙を燃したり、隴を得て蜀を望んだり……と某所で聞いたようなエピソードの元を作りつつ、ケ禹という八歳下の同窓生を軍師にわずか三十一歳で皇帝に。
通常は慎重居士だが、いざという時には乾坤一擲の判断と勇気の持ち主であったのが勝因であったようだ。
口癖は「職に就くなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」。

執金吾というのは、武帝のころからの警視総監の呼び名。盗賊などを、外見からも威嚇する為に文武緒官で最も華やかな衣装だったそうな。陰麗華は恋女房。
俺、キレイな奥さんがいて、そこそこカッコいい役職就けたら幸せだなってことらしい。保身の為には皇帝になるしかない状況だったから、なっちゃったってあたりがステキ。
>>> 『瞳の奥』



呉起 (ごき) BC440〜381
呉子。兵法家といえば名のあがる、孫子呉子の片割れ。戦国時代の人。
諸国を転々と売りこみにいっては、途中まで出世し、退けられることを繰り返している。
出世の為なら、なんでもするタイプだったらしく、魏で、将軍にしたいが妻が敵国の人だから、と言われ、奥さんを自ら切り捨てている。
魏からの亡命先である楚で宰相まで登りつめるが、恨みを買いまくって最後は殺された。
自分を殺した者達も道連れにするために、王の死体にかぶさって誅殺された。
(王の死体に刀を向けた者は、もちろん死罪)

何ヶ国もたらい回しにされてて、なぜ自分の性格に難があるのだと気付かないのか。
こういうタイプって、必ずいますがね。
部下受けはイイあたりが、少々気になるところ。



始皇帝 (しこうてい) BC259〜210
名を政。父、子楚が趙で人質として暮らしていたときに生まれ、苦労をしたらしい。
母の趙姫は、淫乱と史書にきっぱりはっきり書かれるほどすごかったらしい。
政も、子楚の子ではなく、趙姫の愛人であった宰相、呂不韋との子という噂もある。
こんな家庭事情のせいか、その性格に愛情というパラメータがあった形跡がない。
十三歳で秦王について後、ちゃくちゃくとその手に権力を掌握。初の中国統一王朝を作り上げた。
ともかく、統一マニアで、天下だけでなく秤も文字もみんな統一した。
切れ切れだった匈奴との防衛線も、みんなつないで長城にした。
思想としては、法家を支持。おかげで、儒家は焚書坑儒なんていう、酷い目に合ってしまった。
彼が地下に作り上げた兵馬俑は、案外ユーモラスな顔つきをしている。
趣味は、全国巡回と不老長寿の追求、および新語創造。

功罪が大き過ぎる気がしますが、基本的にヒールなあたりが面白い。やはり、六国以上から恨まれた結果か。
個人的にこの人最大の悪事は、焚書で他国の史書を焼いたこと。



周公 (しゅうこう) BC?〜?
周の宰相。名を旦(たん)。
武王の弟で、商を滅ぼした周が天下を治めたとき(BC1027)に、政治をつかさどった。
その治世は、春秋で絶賛されている。ようは、孔子が絶賛する政治家である。
王家の出身だが、自分が王位につく事はなかった。
しかし、封神演義にかかると形無し。

補佐に優れた宰相タイプと思われる。兄、武王は将軍タイプと思われるので、いいコンビだったのだろう。
顔に関する記述がなくて良かったね。あったら、間違いなく餌食だったろうよ(なんのとは問わないお約束)。



春申君 (しゅんしんくん) BC?〜238
本名は黄歇。楚の人。戦国の四君の一人。
楚攻撃の準備を進める秦に使者として赴き、公子を人質とすることで話をつけたり、その後、楚の王が病に倒れた時、公子が後を継げるよう己の身をていして脱出させたりと活躍する。
この功績を認められて春申君の名を賜り、食客をあつめられるだけの財をなした。
食客の李園という男の妹が美人と知って娶るが、妊娠したところで黙って子がいない王に差し出すことを画策。
作戦自体は上手く行くが、李園に疎まれて暗殺された。

最後さえなければ……。美女に弱いまでは許せるが、自分の子を国王にってどうよ?
命と引き換えに叶ったみたいですが。



商鞅 (しょうおう) BC390〜338
本名は公孫鞅。衛の人。のちに与えられた土地が商であったために、こう呼ばれる。
法家の始祖。ようは、法律制定マニアである。
魏に仕えたが、のち、秦の孝公に仕え、その才能を開花させる。
制定当時は、馬鹿にされ、守られなかったが、太子の側近を罰することで法施行を徹底。
秦は法中心国家として、生まれ変わることに。
しかし、これによって太子の恨みを買い、孝公没後、追われる身となり、国外脱出を図ったところ、関で「商鞅の法に罰せられる」と、開けてもらえず、捕えられた。
こうして、彼は自分の法で罰せられた。

歴史の授業で聞いたときから、なぜか心ひかれる人物。
自分で自分の法にハマるあたりが、いいのかもしれない。
本人は、本望だったろうか?ぜひに問うてみたい。
>>> 『関を越えられなかった男の話』



蕭何 (しょうか) BC?〜193
出身は沛。前漢建国三傑の一人。
得意としたのは、法制定、後方支援。
秦の首都・咸陽を落としたときに、劉邦が発令した法三条は、彼の発案といわれる。
ちなみに、法三条とは、殺すべからず、傷つけるべからず、盗むべからず。
秦は法家主義かつ、かなり締め付けが厳しかったので、反動を狙ったモノ。
そういった民情をも察することの出来る、優れた政治家だった模様。

漢成立後、失脚せぬよう周囲が進言してくれる度に素直に従うあたりで、なんとなくお人好しな印象が。
民情に詳しかったのは、若い時の小役人経験が役立ってるのかもしれないな、とも。
>>> 『月無夜』



信陵君 (しんりょうくん) BC?〜?
本名は無忌。魏の人。戦国の四君の一人。
魏の七代目、安釐王の弟。
人を大切にする姿勢から、人から慕われる。また、聡明で食客を利用して国を守るだけの力と情報を得ていたため、返って国王に疎まれ、政治から遠ざけられた。
趙の平原君に姉が嫁いでおり、邯鄲の危機の時には援軍を要請される。魏では援軍はやらないとの決定を下すが、これを不服として、割符を奪って出兵。秦に勝利をおさめる。が、このことで魏に戻れずに趙に亡命。
十年後に、秦の攻撃に耐えかねた魏の要請により帰国。楚、趙、韓、燕との連合軍を率い、秦を函谷関まで追い返す。この戦で秦に恐れられ、工作されて、またもや政治の場から遠ざけられる。
これには失意を感じたらしく、以後酒漬けとなり、酒毒で死亡。

聡明過ぎて遠ざけられたということらしい。人が集まりすぎたのが敗因?
大概、人の道を外しそうになると慕ってくれる食客の助けがはいるので、本当に慕われていたらしい。
司馬遷も四君中もっとも贔屓だったような文責で面白い。



西施 (せいし) BC473前後
中国四大美女の一人(他は、王昭君、貂蝉、楊貴妃)。
越の宰相、范蠡により、呉王・勾践のもとへいき、彼を骨抜きにして呉を滅ぼした。
後、范蠡とともに隠居し、幸せに暮らしたといわれる。
傾国の美女といわれるなかで、唯一幸せになった人。

中国人に言わせると、四大美人中、一番人気らしい。
確かに国が滅んだあとも助かって、しかも蓬莱山に行ったなんて伝説もあるし(羨)。
それはそうと、四大美人に架空の人物が入ってる辺りがおおらか。



孫ビン (そんびん) BC380〜320
孫子B(その呼び名はどうよ)。ビンは足切りの刑に処されたの意。本名ではない。
孫武の子孫という名門の家に生まれるが、それをひけらかすことを良しとせず、他国で兵法を学ぶ。
同門だったホウ涓(ほうけん)に騙され、両足のひざから下を斬られてしまう。が、演技力で逃亡。斉の軍師になり、活躍した。
その後、ホウ涓の属する魏との戦の際、大木の皮を削ってそこに「ホウ涓はこの木の下で死ぬ」と書きつけ、それを読もうと火をつけたホウ涓を射殺した(生け捕りにしたという説もある)。

兵法家とかいいながら、騙されちゃうお人好しさがなんともいえない。
でも、ホウ涓はめるとこの演出から察するに、けっこう怨んでいたのだろうと。
>>> 『大樹之下』



孫武 (そんぶ) BC480前後
孫子A(だから、その呼び名はどうか)。三国時代、曹操が注釈した兵法書、孫子をあらわした。
呉の闔閭(臥薪嘗胆の、嘗胆の方)に仕え、その命令を絶対という雰囲気をつくるために、王の寵姫たちの訓練をして見せ、言うことをきかない彼女らを斬って見せた。

孫子Bが現した兵法書が発見されるまでは、その実在を疑われていた。
しかも同僚が伍子胥と、意外と不運な人(合掌)。



紂王 (ちゅうおう) BC?〜1027
商(殷の呼び名)、最後の王。
史記によれば、暴君である。有名なのは、炮烙の刑(火の燃えさかる穴の上に柱をおき、柱に油をかけて、その上を罪人に歩かせる刑。渡りきれないように油をかけるのがポイントらしい)、酒池肉林(飲み放題・食べ放題で乱交パーティーな宴会)など。
その隣りには、美女、妲己がいたといわれる。
しかし、本人は武術にすぐれ、頭の回転も良かったらしい(「力が強く、周囲を言い負かせた」との記述有)。
最終的には、周に滅ぼされた。

当時、商程度の文化レベルの国家は中国全土に数カ所あって、周もその一つだったらしい。で、紂王も緒辺との戦にかまけてるうちに隣の周に滅ぼされたのが真相に近いとか。
悪し様なのは、滅ぼした相手国に記録されてしまう、最後の王の定めといったところ。
でも、戦好きは本当らしいが。



張良 (ちょうりょう) BC?〜?
出身は韓。前漢建国三傑の一人。字は子房。
劉邦軍軍師筆頭といっていいでしょう。
兵法を修める前は、始皇帝の暗殺を企てたりしていたらしい。
顔に似合わず(どうも、美形らしい)、いざというときに、大胆。得意は正攻法。
天下をとった後は、仙人になると言って引退、引き際も見事。

智者に弱いので、楚漢戦争付近の人物で最も贔屓。
で、劉邦と張良って、劉備と諸葛亮みたいだと思ってたら、横光項羽と劉邦では、二人は劉備と諸葛亮そっくりで大笑い。
>>> 『月無夜』



陳平 (ちんぺい) BC?〜?
出身は陽武。もともと項羽軍に仕えていたが、のち、劉邦軍に降る。
軍中では参謀もしたようだが、蕭何亡き後、宰相になってるので、政治の方が得意なのかも。
兄嫁に手を出したこともあるし、劉邦軍中では、賄賂を集めて軍資金にしたりと、けっこう型破りな性格。

兄嫁と賄賂のせいで、いつも口元に皮肉な笑みを浮かべてるという、怪しいイメージが。
>>> 『月無夜』



平原君 (へいげんくん) BC?〜?
本名は趙勝。趙の人。戦国の四君の一人。
恵文王の弟。強国となった秦の猛攻に耐える趙の宰相を務めた。
首都邯鄲陥落寸前で、楚との同盟を結んだり秦への使者を、食客や部下の助けでやり遂げた。

藺相如、廉頗の二本柱無き後の宰相。
身分の低い者の言葉でも容れる度量があったのはすごい。が、趙の首都邯鄲が陥落寸前になるのは長平の戦いで大敗北を喫したからだ。この件の人事に口を挟まなかったらしいところを見ると、人を見る目があるわけでもない?



ホウ涓 (ほうけん) BC?〜?
中原の人。家柄は良いが、妾腹。
孫ビンの父の塾で盗みを働き放校になったのち、邯鄲で学ぶ。
そこで孫ビンに(一方的に)再会し、なにやら嫉妬の炎を燃やしたらしい。後、魏に仕えるが、孫ビンをはめて足切りの刑にした。
逃げられないとタカをくくって苛めてたら、あっさり逃げられた。
後に将軍までのぼりつめ、孫ビンが軍師を務める斉軍と戦った際にまんまとハメられ、捕虜となる。
その際、「遂に豎子に名を成せり!」と叫んだという。

嫉妬は生まれに対してらしい。確かに自分より実力ある人間を排除するのは兵法家らしいのだろうけど、、やることがなんか陰険。
>>> 『大樹之下』



鮑叔牙 (ほうしゅくが) BC?〜?
斉の人。管仲を桓公に推薦したことで有名。
『管鮑の交わり』のもう一方である。ところで、どんな故事かというと。
管仲と鮑叔牙は幼馴染みだった。
ある時、共同で商売をしたが、利益はほとんど管仲がもってってしまった。
鮑叔牙は「彼の方が貧乏だから」と怒らなかった。
ある時は、管仲が良かれとしたことで鮑叔牙が苦境に陥ったが、「時の運だよ」と怒らなかった。
挙句、斉の別の君主に仕え、管仲の仕えた方は君主争いに負け殺されたにも関わらず、管仲を新君主の宰相に推薦したというものである。

すごい、一方的に管仲迷惑かけまくりの友情。
鮑叔牙の背後に後光が差して見える。



孟嘗君 (もうしょうくん) BC?〜?
本名は田文。斉の人。戦国の四君の一人。
斉の公族で、旗下に食客三千人を集めたという。その基準は『一芸に秀でておればよい』。
秦に人質として食客と赴いていた時、身軽な盗賊と声帯模写の名人のお蔭でまんまと逃げおおせた『鶏鳴狗盗』は有名。
その後、王から疎まれ宰相職を追われた時に食客が去り、後に返り咲いた時、一人残った馮灌という食客に、『富む者を好み、貧する者から去るのは道理、元通りに食客を抱えなさい』と説かれ、それに従うとさらに食客が集まったという。
魏に亡命して宰相になったり、斉と和解したりした後に小領主として独立した。

食客三千人というのは誇大表現ではないらしい。ご飯とか宿舎にランクがあったそうな。
しかし、泥棒でも食客の資格ありっていうのがおおらかというかなんというか。
小領主になった後の話はないので、晩年は穏やかに過ごしたと思われる。



楊貴妃 (ようきひ) AD?〜756
中国四大美人の一人。名は玉環。
最初、寿王に召されていたが、その父、玄宗の愛妃が亡くなった後に召された。
そのころ、だいぶ政治に飽きていた玄宗は彼女に溺れ、国の乱れる要因となった。
安録山の乱で蜀に逃れる途中、護衛である六軍の求めで処刑された。
白居易の『長恨歌』に、物語的に語られて有名。

父親が息子から取り上げるんだから、さぞかし美人だったのでしょう。
唐の美人はグラマーさんなようなので、現代でももてたかも。
でも、国を乱した元凶として中国人の間では不評らしい。



劉邦 (りゅうほう) BC?〜195
前漢最初の皇帝。出身は、沛。邦は名ではなく、兄ちゃんの意らしい。で、字の季は、末っ子のこと。
ようは、もろ農民上がりの、ヤの付く人上がり。
史記では、巡行中の始皇帝を見て、「大丈夫、当に此の如くなるべきなり」とつぶやいたとされ、項羽との性格比較でよく持ち出されることとなる。
長所は、人の話をよく聞くことと、それを容れる度量があること。
その他、遊び好きの怠け者で、いいとこは無。
でも、その長所で人を集めまくり、ついには皇帝になった。

皆がよってたかって世話しているあたり、よほど放っておけないタイプだったんでしょう。


藺相如 (りんそうじょ) BC?〜?
趙の上卿。戦国末期の人。
元は趙の寵臣の食客。秦から十五城と引き換えに趙の国宝「和氏の璧」を要求された際に使者に立つ。秦側に城をよこす気はないのを見て取り、一歩も引かずに壁を無事に持ち帰ったことから重用される。
後日の和睦会議でも、秦に恵文王を臣下扱いさせなかった功績を認められ、最高職となる。
が、これが武官重鎮の廉頗の気に入らず、追いまわされるハメに。逃げ回りつつ「廉頗将軍が欠けても、私が欠けても趙は持たぬ」という心にくい発言でコトを丸く治める。この後は、「刎頚の交わり(互いの為ならば、首を切られてもかまわない、というほどの友情)」という仲となり、趙を支え続けた。

逃げ回ってた時、本音のところは「命あっての物種」であったと思われるが(失礼千万発言)。廉頗将軍を認めてるってことを噂で伝わるようにするあたり、やはり策士である藺相如が一枚上手。


廉頗 (れんぱ) BC?〜?
趙の将軍。戦国末期の人。斜陽の趙を武で支えた。
元々布衣であった藺相如が自分より上の地位になったことが気に入らず、誰彼構わず「目に物みせてくれる!」と息巻く。おかげで、藺相如は外出を控えるわ、外出しても廉頗が来そうだとわかると逃げ隠れるわで大変だった。ある時、逃げ隠れてるのは廉頗と藺相如、どちらが欠けても趙は持たないから、と聞かされて改心。
囚人姿に茨の鞭つきで藺相如に謝罪に行く。この後、「刎頚の交わり」を結ぶ仲となり、二本柱で趙を支えつづけた。

かなりしつこく追ってたあたりも、認められているとわかった途端に素直に謝るあたりも、一本気な武将である感があります。しかも優秀な将軍だったわけで、重鎮になるだけの実力は備わっていたわけですな。
趙は、藺相如と廉頗を失うことで滅ぶので、この二人の実力が良く知れます。



らいんだよ


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